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アニメ「PERFECT BLUE(パーフェクトブルー)」“例のシーン”が忘れられない理由──観る側の心まで揺さぶる演出の正体

みんなが言う「例のシーン」とは何なのか

パーフェクトブルー 例のシーン」

この言い方が定着してる時点で、
もうこの映画が普通やないことは分かると思う。

具体的な説明は避けられることが多いけど、
観た人同士やと、だいたい通じる。

「あのシーンな……」
「正直、ちょっと目を背けた」
「しんどかったけど、忘れられへん」

そう言われる場面や。


なぜ“あのシーン”だけ特別に語られるのか

正直に言うで。
衝撃的な描写だけなら、他にもある映画はある。

でもパーフェクトブルーの“例のシーン”が特別なんは、
単なる刺激やショック目的じゃないからや。

あの場面で一番きついのは、

  • 何が起きてるか

  • 誰が望んでるのか

  • 本人はどう感じてるのか

それが、はっきりしないこと。

観てる側は、
「これは演技なのか」「仕事なのか」「心はついてきてるのか」
ずっと揺さぶられる。

その曖昧さが、
気持ち悪さとして残る。


観ている側も“当事者”にされる演出

あのシーン、
ただ眺めてるだけの立場でいさせてくれへん。

カメラの位置、間の取り方、音の使い方。
全部が、

「お前はどう感じてる?」
って問いかけてくる。

  • 見てしまってる自分

  • 目を逸らしたくなる自分

  • それでも続きを知りたい自分

この感情を同時に抱かせる。

だからこそ、
観終わったあとに残るのは罪悪感に近い感覚や。


あのシーンは“転落”じゃなく“境目”やと思う

よく言われるのが、

「あそこで一気に壊れた」
「取り返しがつかなくなった」

という見方。

でも自分は、
あの場面を転落の瞬間とは思ってへん。

むしろ、

「戻れなくなったと本人が思い込んでしまった境目」

ここが一番しんどい。

実際に何が起きたか以上に、
「もう前の自分には戻れない」という意識が、
心を決定的に追い込んでいく。


なぜ今の時代でも“例のシーン”が語られるのか

このシーンが古びへん理由、はっきりしてる。

今の時代も、

  • 仕事だから

  • 求められてるから

  • 期待に応えないと

そうやって、自分の気持ちを後回しにする場面は山ほどある。

規模は違っても、
「自分の本音を置き去りにする感覚」は、
誰でも一度は経験してる。

せやから、
あのシーンがただの過去のフィクションにならへん。


観たくないのに、忘れられない理由

あのシーンを、

  • 二度と観たくない

  • 正直しんどい

そう思うのは、自然や。

でも同時に、

  • なぜか記憶に残る

  • 頭から離れへん

これもまた事実。

それは、
あの場面が物語のためやなく、心のために存在してるからやと思う。


まとめ

“例のシーン”は、観る側の覚悟を試してくる

パーフェクトブルーの“例のシーン”は、

  • 刺激的だから有名なんやない

  • 過激だから語られるんやない

観る側に、

「お前はどこまで見届ける?」
「他人の人生を、どう見る?」

そう問いかけてくるから、
忘れられへん。

しんどい。
気持ち悪い。
それでも語られる。

それが、この映画の強さやと思うで。

 

追記:それでも「あのシーン」は必要やったのか

正直な話な。
あのシーンについては、今でも賛否ある。

  • なくても成立したんちゃうか

  • もう少し抑えられたんちゃうか

  • 観る側に負担が大きすぎる

こう思う人がおるのも、全然おかしくない。

でも、自分はこう思ってる。

あのシーンがなかったら、パーフェクトブルーは“別の映画”になってた。


なぜ省略できなかったのか

もし、あの場面が
ナレーションやカットだけで処理されてたらどうなるか。

観る側は、

「ああ、大変やったんやな」
「仕事として割り切ったんかな」

そうやって、安全な距離を保ててしまう。

でもこの映画は、
その距離を許さへん。

あのシーンは、
主人公だけやなく、観ている側の心を試す装置やったと思う。


“出来事”より“体験”を伝えるため

重要なんは、
何が起きたかやない。

その場で、どんな感覚が残ったかや。

  • 時間が長く感じる

  • 空気が重い

  • 早く終わってほしい

これ、全部観てる側が感じることやろ。

その感覚こそが、
主人公の心に残り続ける“しこり”と重なる。

言葉では伝えられへん部分を、
体験として共有させる。

それが、あのシーンの役割や。


あそこで「自分を切り離してしまった」

あの場面以降、
主人公は少しずつ自分から距離を取り始める。

「これは仕事」
「本当の自分じゃない」

そうやって自分を守ろうとする。

でも同時に、
自分自身を切り捨ててしまった感覚も残る。

あのシーンは、
壊れた瞬間やなく、
壊れ方を覚えてしまった瞬間やと思う。


観る側が感じる“居心地の悪さ”こそが答え

あのシーンを観て、

  • 早く終われと思った

  • 直視できなかった

  • なんで自分は観てるんやろと思った

その居心地の悪さ。

それはな、
この映画にとって正解の反応やと思う。

もし何も感じへんかったら、
それこそこの作品は成立してへん。


あのシーンがあるから、ラストが生きる

最後のあの言葉が、
ただの前向きなセリフに聞こえへんのは、

そこまでに、
取り返しのつかへん感情をちゃんと通ってきたからや。

軽い回復やない。
奇跡でもない。

「それでも、前を向く」

その重みを成立させるために、
あのシーンはどうしても必要やった。


まとめ

必要やったからこそ、語られ続けてる

あのシーンは、

  • 観てて楽しい場面やない

  • 何度も観たい場面でもない

でも、

語られ続けてる時点で、映画としては負けてない。

不快さも、違和感も、
全部含めてパーフェクトブルー

あの場面があるから、
この映画は今でも「観る覚悟がいる作品」として残ってる。

それが答えやと思うで。