『アデル/ファラオと復活の秘薬』を観終わったあと、
多くの人が検索してしまう言葉がこれ。
「アデル ファラオと復活の秘薬 続編」
結論から言うと、
現時点で公式な続編の予定はない。
それでも、この映画はなぜか
「続きがあってもおかしくない余韻」だけは残していく。
なぜ続編が作られなかったのか
理由はいくつか考えられる。
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興行的に“大ヒット”ではなかった
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世界観が独特で万人向けではない
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原作シリーズが長く、映画化が難しい
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主人公アデルが続編向きの性格ではない
特に大きいのは最後の点。
アデルは、
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成長しない
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恋愛に向かわない
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仲間と深くつながらない
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物語的カタルシスを拒否する
つまり、
続編で「変化」や「成長」を描きにくい主人公やねん。
ハリウッド的なシリーズ展開とは、
根本的に相性が悪い。
それでも「続編」を想像してしまう理由
それでも人は、
続編を求めてしまう。
理由はシンプルで、
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世界観が広い
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時代設定が魅力的
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アデルという存在が未消化
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冒険はまだ始まったばかりに見える
映画は「完結」しているけど、
「閉じて」はいない。
この中途半端さが、
想像を誘う。
もし続編があるとしたら、こんな形がいい
もし続編を作るなら、
前作と同じことをしても意味がない。
だから、こんな方向性がしっくりくる。
① スケールは大きくしない
恐竜よりデカい敵。
世界の危機。
そういうのは不要。
むしろ、
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都市ひとつ
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事件ひとつ
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謎ひとつ
それくらいでいい。
アデルは「世界を救う女」ではない。
② アデルは変わらないままでいい
続編でよくある失敗はこれ。
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優しくなる
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仲間思いになる
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恋に落ちる
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人間的に丸くなる
それはアデルじゃない。
変わるなら世界の方で、
アデルは相変わらず皮肉屋で冷静で距離を取ったまま。
③ 恋愛は最後まで主軸にしない
もし誰かがアデルを好きになるとしても、
アデルはそれを「処理」するだけ。
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利用する
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かわす
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受け取らない
恋愛をドラマにしないこと。
それがアデルという主人公の最大の個性。
④ 物語のテーマは「復活」ではなく「時間」
続編があるなら、
テーマはこれが合う。
「時間に取り残されること」
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生き返る者
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老いていく者
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忘れられる者
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生き続けるアデル
冒険よりも、
時間の残酷さを描く方が
この作品らしい。
もしかすると、続編は「作られない方がいい」
正直に言うと、
『アデル/ファラオと復活の秘薬』は
続編がないからこそ、記憶に残る映画でもある。
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物足りない
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完全に満たされない
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どこか歪んでいる
その感覚ごと含めて、
一本の作品として成立している。
まとめ:続編はない。でも想像は自由
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公式な続編は存在しない
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しかし、続編を想像させる余白は残している
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アデルはシリーズ化しにくい主人公
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だからこそ、唯一無二の映画になった
続編を待つより、
「もしあったらどうなるか」を考えてしまう映画。
それ自体が、
この作品の強さやと思う。
続編が作られない映画の美学
──『アデル/ファラオと復活の秘薬』が“一作だけ”で終わった理由
映画には大きく分けて、二つのタイプがある。
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続いていくことを前提にした映画
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続かないことで完成する映画
『アデル/ファラオと復活の秘薬』は、
明らかに後者の映画だ。
続編が作られない=評価されなかった、ではない
まず誤解されがちやけど、
続編がない
= 失敗作
= 忘れられた映画
というわけではない。
むしろ逆で、
一作で終わることを許された映画には、
独特の美学がある。
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物語を広げすぎない
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キャラクターを消費しない
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観客の想像力に委ねる
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「余白」を残して終わる
アデルは、この条件をほぼすべて満たしている。
シリーズ化と相性の悪い主人公たち
シリーズ化される映画の主人公には、
ある共通点がある。
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成長する
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仲間が増える
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感情が開いていく
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勝利や達成が用意されている
でもアデルは違う。
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成長しない
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人と距離を保つ
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恋愛を拒否する
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達成感を与えない
つまり、
「次も観たい主人公」ではあるが
「変化を見守りたい主人公」ではない。
これが、続編と決定的に噛み合わない理由。
未消化感は“欠点”ではなく“設計”
『アデル/ファラオと復活の秘薬』を観終わったあと、
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物足りない
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もっと観たかった
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なんかスッキリしない
こう感じた人は多い。
でもそれは、
物語が未完成だからではない。
未消化のまま終わるように作られている。
これは、
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すべてを説明しない
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感情を回収しきらない
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観客に解釈を委ねる
という、かなり意識的な選択や。
続編がある映画は「消費」されやすい
シリーズが続く映画は、
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記号化され
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キャラが固定化され
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期待通りの展開を求められ
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やがて飽きられる
一方で、続編がない映画は、
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時々思い出され
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語られ方が変わり
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年代ごとに評価が揺れ
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静かに残り続ける
アデルは、
まさに後者のタイプ。
「続きがない」からこそ想像が続く
もし続編があったら、
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アデルの次の冒険
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新たな敵
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もう少し派手な展開
そういうものが提示されたはず。
でも続編がないから、
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アデルはその後どう生きたのか
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また別の街で同じことを繰り返したのか
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何も変わらず歩き続けたのか
それを観客が勝手に考え続ける。
映画が終わっても、
物語が頭の中で終わらない。
一作完結の映画は「信頼」の表れ
続編を作らない、という選択は、
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観客を信じている
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想像力を信じている
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余韻に耐えられる作品だという自負
の表れでもある。
すべてを説明しなくてもいい。
続きがなくても、記憶に残る。
それができる映画は、
実は多くない。
まとめ:続編がないこと自体が、完成形
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『アデル/ファラオと復活の秘薬』に続編はない
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だが、それは欠落ではない
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一作で終わるよう設計された物語
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想像を奪わないための選択
続編が作られなかったのではなく、
作られない方が美しかった映画。
アデルは、
観終わったあとも
静かに頭の片隅に居座り続ける。
それこそが、
この映画が持つ“美学”やと思う。